焚き火 diary

火と向かい合う。自分が見えてくる。

最後の秋の日

明日未明から積雪の予報。 11月のこの時期に降雪、しかも積雪の予報まで出るなんてとても珍しいことです。

最後の秋の景色を切り取っておきたくて、少し早起きして散歩に出かけました。

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我が家の前は今、こんな感じ。 数日前から続いた強風が、枝に残っていた最後の葉を散らしてしまって、枝の向こうに秋の空が透けて見えています。 この景色も、明日には真っ白になるのかなあ。。。

 

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奥に見えるのが甲斐駒ケ岳。 数日前から頂上付近は冠雪が見られます。 手前にある山が日向山(ひなたやま)。 この景色を見ると、私はいつも、麓から山の頂まで自分の体がふわっと風に運ばれるような、爽快な気分になります。 

 

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盛りを過ぎた紅葉の中の、わずかに残された紅色に、ふと目がいきました。 少し前までは鮮やかだった葉の色が、秋の冷たい雨に洗われて洗われて、今はわずかになごりの色が残るのみ。 最後に残った紅も、明日の雪で白に染まるでしょう。 

 

季節は移ろっていくものと思いながらも、今日が秋の最後の日。 

明日の朝から、私にとっての冬が始まります。

生け花

なんかいまいちな写真なんですけど、今日参加してきた假屋崎省吾さんの講演会で活けられたお花たち。

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手前が馬酔木をメインに、菊とカスミソウ。

奥がオンシジウムに黄色のスプレー菊。モンステラとニューサイランの葉物の組み合わせ。

 

どのアレンジも、ずっとマイク越しにあれこれしゃべりながらどんどん活けていくわけなんですが。 私がたま~に気が向いてお花を活けたりする時は、一度挿しては引っこ抜いてみたり、あちこちから眺めてみたり、さんざんいじくりまわして、最後なんとなーく無難に完成するんですが、假屋崎さんには躊躇がない。 どの一投も一発で決めるんです。 しかも最後、前から見たり、横から見たりとか一切せずに「はい、完成~」って。。。 私が勝手に想像するに、この人の頭の中では、お花を一本挿すごとに一投ごとの画像のレイヤーが足されていくというか、立体で花の向きやバランスを把握できるんでしょうね。 一流の生け花をライブで見れたことが、今日はとてもうれしかったです。

 

それからもう一つ感じたことがありました。

それは、命と向き合う時は、真摯であるべきだということ。

花も一瞬一瞬命を燃やしているわけです。 ちょっと大げさかもしれませんが、それを人間の意志で無理やり茎を曲げたり花を切ったりする時、その瞬間こちらも命を込めて真剣勝負。 勝負の連続。 だから、華なんでしょうね。

 

講演中、盛んにご自身が監修された「よく切れる花バサミ」の宣伝をなさっていましたが、これも、花たちに負担を極力かけないための、人間側ができる一つの手段であり、假屋崎さんの優しさの表れなんだろうなと思いました。

 

私には、假屋崎さんのように優雅で豪華絢爛な生け花は到底できませんが、せめて今度、自宅で一輪挿しをする時、よく切れるカッターですっと茎を切ってあげたい。 そして、毎日水を替えて、最後まできちんと面倒をみてあげたい。

そう思いました。

 

冬籠り

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夏の間、庭に出していた大型のコンテナ鉢を、家の中に取り込みました。

手前がアジサイ、奥がバラ。

本州でももう少し暖かいところなら、屋外で冬越しできるのかもしれませんが、私の住む北杜市では、鉢物は間違いなく凍死します。 

アジサイは葉っぱが残っているだけだし、バラはほとんど枯れ木の状態で、どちらもあまりにも寂しかったんで、近所のホームセンターで一鉢78円のパンジーとビオラを買ってきて、土の空いている部分に植えこみました。 これだけなんですけど、かわいいお花が部屋の中にあるだけで、そこだけふっと明るくなる。

 

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こちらは、大型のキャンドルの周りを、庭で茂っているローズマリーで飾ってみました。 枝を固定するワイヤーと、ゴールドの木の実は100均で調達。 ざっくりワイヤーで固定しただけなので、おおざっぱな私でも10分でできた! 

これだけでも、なかなかのクリスマス感でしょ?

 

これからの季節は、家の中で過ごすことが多くなる時期。

夏とは違って、自分自身の体や心、身近な環境に意識が向く時ですよね。

 

パンジーもローズマリーも、無くたって全く問題ない。

でも、あえてちょっとあしらってみる。

ちょっとだけ、ふだんより丁寧に暮らしてみよう。

そう思った、冬籠り初日でした。

 

 

答え

実は今、鳥肌が立っています。

偶然が続くときには、何かそこに意味がある気がします。

 

今日、たまたまテレビをつけたら映画『陰陽師』やってました。 

そう、有名な安倍晴明のお話ですね。

そして来週は映画『里見八犬伝』の再放送だそうです。

ずいぶん昔の映画です。 私が中学生の頃に一度見て、独特の世界観にずいぶん影響を受けました。(原作とは内容がだいぶ違うようですが)

 

今、この時期に、この二つの映画が連続で放送されることは、たぶん、私以外のほとんどの人にとって、たいして意味のないことだと思うのです。 でも。。。

 

物事に悩んでいる時、その答えを示してくれるような「偶然の出来事」が続くことって、ありませんか? 

 

こういうことって、私はこれまでにも何度か経験あるんです。

そして、こういう時は必ず、その偶然の出来事が示してくれた道を素直に選ぶようにしてきました。

そして。

大抵こういう場合、物事は一気に進みだします。 もちろん、いい方向に。

 

陰陽師も、里見八犬伝も、実は今の私に必要な、一つの明快な答えを示してくれているのですが、このあたりの話を書きだすと朝になってしまうので、いずれまたブログで書くことにいたしましょう。

 

断然、これからが楽しみになってきました。

これはもう、腹をくくるしかないです。

 

 

 

 

 

 

見えぬもの

最近の人との出会いには、驚くことばかりです。

今日は職場の人に薦められた整体院に行ってきたんですが、

90歳のその先生は『気』の達人でした。

 

目に見えないものの力や存在を、信じる信じないは自由でいいと思いますが、

私は間違いなく、信じています。

あると思えば、感じられると思うのです。

感じて生きていたいから。

 

私の好きな、この詩を思い出しました。

 

≪ 星とたんぽぽ ≫ 詩=『金子みすず』 

         青いお空のそこふかく
         海の小石のそのように
         夜がくるまでしずんでる
         昼のお星はめにみえぬ
         
     見えぬけれどもあるんだよ
     見えぬものでもあるんだよ

         ちってすがれたたんぽぽの
         かわらのすきにだァまって
         春のくるまでかくれてる
         つよいその根はめにみえぬ
    
       見えぬけれどもあるんだよ
       見えぬものでもあるんだよ

二本の道標

ブログのテーマって、自分の好きなことだったり、興味のあることだったりすると思うのですが、私の場合、書きたいテーマがしょっちゅう変わるというか、軸がなくてブレブレだな~と感じていました。

 

ところが、改めてこれまでのブログを読み返してみて、そうでもないことに気づいたんです。

 

私の記事には明らかに二つの軸になるテーマがある。それは・・・

 

【自然に関するテーマ】

季節を感じる身近な自然、里山の豊かな暮らし、身近な動物や植物たち など

目に見える自然を、科学としてありのままに観察すること。

 

【感性に関するテーマ】

スピリチュアルな世界観、想い など

目に見えない世界を、自分の感性で捉えて理解すること。

 

意識して書いてきたわけではないのですが、これまで書いてきたどんな内容のブログも、どうやらこの二つのテーマに振り分けられるようです。 以前にもブログで少し書いたことがあるのですが、これはまさしく、父と母が私に残してくれた、人生の道標。

 

理科教員で自然が大好きだった父。 夏休みの昆虫採集や自由研究は、いつも父と一緒でした。 子供の頃の楽しかった記憶がそのまま大学の専攻(野生動物生態学)に繋がり、そして今に至っています。 今は自然とはほとんど関係ない仕事についていますが、やはりふとした拍子に足元に咲く花や虫に目が行くのは、明らかに父の影響なのです。

 

そして、本が好きで、豊かな感性の持ち主だった母。 体が弱く、常に病気がちだった母は、いつも死を身近に感じながら生きているようなところがありました。 そして、普段の生活でも静かに自分の内面を見つめ、生き方を考え続けた人でした。 私が理系の大学に行きながらも、数字だけでは図れない世界があること、人とは生かされているものだと直感的に感じることができたのは母のおかげだと感じています。 

 

父から受け継いだテーマと、母から受け継いだテーマ。 私は知らず知らずのうちに、この二つのテーマを選び続けていたのですね。 

 

そして。

これからもこの道標に沿って生きていけば、父も母も永遠に私の中に生き続けるのだということ。

 

ああ。 こういうことだったんだと腑に落ちました。